迷路

自分とは何かを知るための日記

あるがまま見たままを記録するというのは、こういう心持ちを得られるのかと、大きな発見をした

「(進歩した文明社会というものは)過去の人々の知見や知識が記録として残されていたから、その上に新しいことを築くことができたのです」(池上彰著「おとなの教養」)

 

この一節がずっと頭にあった1日だった。

土曜日のクリーニング屋さんはひと癖あるお客さんが多い。対応を一歩間違えると、大きな問題やクレームに発展することすらある。しかも似たような問題を繰り返し起こしていて(学習してないなぁ)と常々感じていた。

 

最初に引用した一節はずいぶん前に読んで知っていたことであるが、ずっとなんだかモノクロな一節で、これによって自分が何か変化したということはなかった。しかし、最近になって(特に今日になって)急にこのフレーズが色彩を帯びてきて、自分の行動や心持ちが変わったのだ。楽になった、というか、自由になった、気がする。

 

今日もクセのあるお客さんがきた。僕が思ったのは「あとで、このやりとりを再現して記録しよう」ということだった。たったこれだけで、いつもと違った。自分が話す内容が行き当たりばったりではなく能動的になり、言いよどむことや、言い忘れることがなくなった。また、いつもイライラしながら話すお客さんなのだが、そのイライラも後で記録すると思うと、主観的に感じ取るのではなく客観的に観察している自分に気づいた。あるがまま見たままを記録するというのは、こういう心持ちを得られるのかと、大きな発見をした。今までは相手を主観的に感じ取り、カッとなったり、頭の中が真っ白になったりしていたが、今日はそういう自分からも少し離れて見れた感じで、少し離れた場所から「今は、こう言ってみるといいぜ」とか「これ言い忘れてるだろ」と自分に忠告していたのだ。

 

もちろんこれだけでクレームがなくなるわけではないだろうし、自分の生きづらさが全く解消されるとは思わない。しかし、下手な精神論なんぞに比べたら天地ほどの効果の違いがある。池上彰さんも上記の著作の中で「戦争や内戦中はなかなか記録を残す余裕がない。だから人間は戦争を繰り返す」とおっしゃっている。記録は世界を救う。記録は私も救ってくれる。