迷路

自分とは何かを知るための日記

びっしょりの自分のTシャツを見てそれを触ったから発散された感を得られると言っても過言ではない

6時起床。

テニスレッスンのお仕事の日。

火曜は朝練に参加する日である。

朝練は疲れるけど、たくさん汗かいて、Tシャツがびっしょり濡れているのを見て「ああ、これだけ僕の体の中にあった憂鬱や嫉妬や劣等感や被害妄想や苦悶や屈辱や差別意識や、、、あらゆる毒素だったんだな」と思う。体を動かしたから発散されたと言うよりは、びっしょりの自分のTシャツを見てそれを触ったから発散された感を得られたと言っても過言ではない。

テニスに限らず、レッスンというものは、上手くなるように教えるというよりは、その人の体の中に閉じ込められている能力を解放させる鍵を探して開けてあげることである。解放されて自由になった体は、様々な発見をしやすくなる。人から与えられた正解より、自分で発見した失敗の方が10倍役に立つと断言できる。ましてや自分で発見した答えは、多分一生忘れない。発見できる環境を、練習していると感じさせない練習を。キーワードはやはり「遊び」である。

 

こういうの学術的になんて言うのだろうか

6時起床。

僕は出かける直前に着替える派なのであるが、ここ最近ジーパンをはいて出かける時に自分に愛想をつかしたくなるような出来事を繰り返している。

何本かズボンは持っていてほとんどがウェストジャストサイズなのであるが、ジーパンだけが少しサイズが大きくて、ベルトがないとスノーボーダーのようにずり落ちてしまうのである。それでもお尻の丸みのところで落ちるのはストップしてくれるので、ベルトがなくても見た目は問題ないのであるが、ずり落ちそうになる感じが心許なくて気持ち悪いので、ジーパンだけはベルトをするようにしている。

問題はここからだ。

ジーパンをはく前にベルトを目の前に用意する。ジーパンをはく。そして次の瞬間もう駅の近くまで歩いてきている。ハッと思い腰に手を当てるとベルトはしていない。

そう、ジーパンを履き終わった瞬間から「ベルトをしよう」という意思が消えてしまい、しばらくしてから思い出すのだ。ここ最近ジーパンを履いた日は全てベルトをするという意思(意思というか、なんつーの?こういうの)が消えてしまうのだ。

多分、履き始める時は「ベルトしよう」と思っているのだが、はいてる最中に別のことを考え出すと、ベルトが頭から抜けしまうのだ。

世の中のみんなはこういうことはないのだろうか。他にも僕は似たようなケースがある。音楽を聞いていて、好きな曲の途中に気に入っているフレーズがあって、そのフレーズを楽しみに曲を頭から聞いているのであるが、好きなフレーズにたどり着く前に、何か他のこと(仕事のことでも、もっと他愛のないことでもなんでも)が頭によぎると、そのほかのことに持って行かれて、気がつくと好きなフレーズを通り過ぎてしまって、また頭から曲を掛け直す。次こそは集中するぞと思っても、またひょいと何かが浮かんだり、いつもは気にしない壁のちょっとした汚れなどが目に入ったりすると、また好きなフレーズを通り過ぎてしまう。そんなことを何度も繰り返すうちに、フレーズに辿りつくまでの曲に飽きてしまい、聞くのをやめてしまったり、好きなフレーズまで早送りしてその部分だけ聞いて、とてつもなく虚しい気分になったり。

ベルトの件も、ホント何度も繰り返している。こういうの学術的になんて言うのだろうか。学術的な名前などついていないのであろうか。

駅の近くで、腰に手を当てて、ハッという顔をしている奴がいたら、それは僕である。

一番最初にやった時が多分、上手にやろうという欲がなかったのであろう

9時起床。

お弁当作り。ご飯とソーセージとだし巻き卵とミートボール。ミートボールとだし巻き卵は僕の手作りである。

だし巻き卵を初めて作った時が一番上手に巻けた。なんだかやればやるほど下手になっていく気がする。フライパンをひょいと持ち上げるタイミングと、卵をひっくり返してパタンとたたむタイミングがうまく合わないのだ。手だけ持ち上げればいいものを、体全体がぴょんと上下動してしまう。

一番最初にやった時が多分、上手にやろうという欲がなかったのであろう。肩の力が抜けて手首のスナップが程よくひょいと動いたもんだ。今はうまく綺麗にやったろうと思って肩に力が入り、関節が固まって、胴体が上下動してしまうに違いない。何事も無欲無心ですべきなのだ。ブッダも手塚漫画の中で「いろいろな欲望には、いろいろなわざわいがつきまとう」と言っていた。

 

24時間テレビのランナー、今年はブルゾンちえみ。僕が子供の頃は、24時間テレビといえば手塚治虫制作のアニメだった。アニメや漫画というものは、SFなどの非現実的なフィクションを描きやすい、つまり「こうなったら良いな、こうなったら嫌だな」という未来を描きやすいのだ。子供達がそれを見て明るい未来を想像することができた。マラソンが悪いわけではないが、子供達がマラソンを見てもつまらないだろう。世界の未来は明るいと思えるからこそ、みんな募金をするのではないか。子供達にも希望と勇気を与えてくれるような番組にするべきなのではないか。。。。

新聞の読者投稿欄のようになってしまった。

さっき起きたばかりなのにと忠告してくれる小人さんは僕の中にはいない

ほぼお昼に起床。

即席めんの焼きそばを作って食べる。2袋作った。なぜか即席焼きそば麺が大量にあり、家族の誰も食べないので、少しゆっくりできる土曜などに自分で作って食べている。今日は、ちょうどソーセージがあったので輪切りにして食べた。

カップ麺の焼きそばより袋入りの方がいい。実際にフライパンの上で焼くので、本当の意味での「焼きそば」になるからだ。カップ麺はお湯でふやかすだけだけなので、軽い焦げ目もつかない。そう、焼きそば、焼きおにぎり、焼肉など「焼きホニャララ」という名前の食べ物の醍醐味は「焦げ目」である。

嫁が「なぜお米炊いてあるのに焼きそば食べるの?炊き忘れたかと思ったじゃん」とふてくされたように言う。炊き忘れたかもしれないという嫁の不安を揺り起こすために焼きそばを作ったわけではないし、嫁の不安を解消するためにご飯を食べなきゃと先回りできるほどできた夫ではない。最近お昼は僕が自分で作ったお弁当を持って職場に行くので、お米の消費が激しいと先日嫁に言われていたので(少し嫌味っぽく聞こえた)、自重しただけである。つくづく夫婦生活というのは難しい。

王様のブランチを観ながら、高橋一生くんスケボーうまいなぁなどどつぶやきつつ食べ終わる。仕事は4時からなので3時頃出れば間に合うから、1時間ばかし寝ることにした。さっき起きたばかりなのにと忠告してくれる小人さんは僕の中にはいない。

4時からクリーニング受付。

苦手なお客さんが早速ご来店。前もブログに書いたが、自分の洋服のためにクリーニング屋さんの受付の店員をぞんざいに扱うお客さんには心が削られてしまう。このお客さんもこのタイプである。とにかくこちらを虫けらのようにしか見ていないので、リスク説明や期限の確認など、大事な伝達事項をまともに聞かない。そのくせリスクが現実になってしまった時の店員への攻撃は、PAC3でも撃ち落せない。

まぁでも、少しずつこのお客さんへの僕なりの対応マニュアルが出来上がりつつある。困った時は具体化するといいとツイッターで演劇の若手演出家さんが言っていた。確かに抽象的感情的に物事を捉えると、こんがらがって苦しくなる。一つ一つを具体化して解きほぐしていけば、必ず道は開ける(と思う)。

隔週ならいいと言われた

僕にはお休みがない。唯一土曜だけ、16時から20時までの4時間だけの勤務という日があるが、あとはクリーニング店の受付12時間とか、午前中テニスレッスンのお仕事して、午後から夜までクリーニング受付など、完全に一日お休みという日がないのだ。
少し前まではそれほど苦にならなかったが、最近なんだか思考がネガティブになってきていて「ああ、うつ病になる人って、始めはこんな感じなのかなぁ」などと思ってみたりしている。これはなんだか嫌な兆候なので、僕が働いている支店に定休日を設けたいと、社長である父にお願いをしたら、隔週ならいいと言われた。
うーん、まぁ一歩前進か。

クリーニング受付とテニスコーチ、全然関係ない職種のダブルワークなので、どちらの会社も僕が一日も休みないからどうにかしてと言ってもピンとこないのだ。各々の会社側からすれば週の半分しか来ないわけだから、そりゃそうだろう。

流れに身を任せて生きてきた今までを少し整理する時なのかもしれない。

日出ずる処の民は、周囲の評価を気にするのだ

午前中はテニススクールのお仕事。先日からの下痢は夜中におさまった模様だったが、再発を恐れて朝食は摂らないことにする。ここらへんは自分の性格が出ていると思う。まぁ大丈夫でしょー、とはならず、転ばぬ先の杖を持ちたがる。

先日の夕飯も食べてないので、昨夜から何も食べていないことになる。

職場に着いて、スタッフたちととレッスン前に談笑する。

「昨日の夜、すごい下痢でさ、途中でコートからいなくなるかもよ」と予防線を張る。

後輩のアシスタントコーチが

「えー、それは無理ですよー」と困ってみせる。

他のコーチが「1回だけ消えたことありますよね、もうダメだっつって(笑)」

常習犯とまではいかないが、お腹が弱いのは周知のことである。

 

結局、レッスンでは大丈夫だった。ただ、気温が33度ぐらいだから、熱中症になりそうだった。お腹壊してしまう時は、どうしても水分が不足気味になる。飲めばお腹壊すかもしれないし、飲まないと熱中症。どちらが死に近いかと言えば、やはり熱中症なので、常温の水を飲んで、なるべくお腹を冷やさないようにした。冷たい水の方が体に早く浸透し、ぬるい水はお腹にチャポチャポたまる。でも冷たいものがお腹に入ってくるのは不安だ。多少浸透が遅くても常温が正解だろう。

 

しかし、下痢と熱中症の表裏一体な症状が確定していても「だから、今日は休みます」と言えない自分。休んでしまった時の周囲の目が気になる典型的な日本人。日出ずる処の国の民。この「日出ずる処」というのは中国から見て日本は東側にあることから、こう呼ぶらしい。池上彰さんが言ってた。で、この「日出ずる処」→「日が出る元(本)」というところから「日本」という名前がついたらしい。池上彰さんが言ってた。

日出ずる処の民は、周囲の評価を気にするのだ。これは池上彰は言ってない。

 

なんとか乗り越えて夕方からクリーニング屋さんの受付。お昼はお腹に優しいうどんにした。

まるで貴族と奴隷のような身分の違いのように置き換えてくる人も少なからずいるのだ

一日クリーニング受付の日。

午前中、胃が痛い。

軽くみぞおちを叩いて少し楽になる。

 その後、ニットの糸づれを修理。

 

午後、胃痛は和らいだが、お腹を壊してしまう。油物を食べ過ぎたかなぁ。ストレスなのかなぁ。

 

仕事でクレームを受ける時、そのクレームの内容に対して話し合いができる相手なら、あまり問題ない。こちらの責任がどの範囲まで及ぶのかを、きちんと共有してくれるお客さんであれば、ストレスはたまらない。

しかし、責任の境界線を限りなくこちらが100になるようにしたがる人は一定数いて、そういう時は話し合いをしても平行線。そればかりでなく、自分の「お客様」とこちらの「サービス業」という立場の違いを、まるで貴族と奴隷のような身分の違いのように置き換えてくる人も少なからずいるのだ。

それがエスカレートしてくると、こちらを一人の感情もあり人権もある人間として見てもらえなくなり、言いたい放題になる。これをやられるのが自分としては1番きつい。

自分が、ただそこにいるだけの、なんの価値もない人形やであるかのごとく世界を感じてしまう。ただそこにいるだけでもいいんだよと誰かに言ってもらうのだ、あるいはそういう物語や音楽を探すのだ。ヤケドした体には冷水を、冷えた体には温かいお風呂を。体が元通りに中和されるまで。