迷路

自分とは何かを知るための日記

年表的な文章は人の声が聞こえないのがなんか寂しい

何かを調べる時、私は、上辺をなぞるとはどういうことか、上辺ではなくしっかり調べるとかどういうことか、その違いはなんなのか、常々疑問に思っていた。

読書は好きで調べ物は楽しいのだが、いろいろ書籍などを当たってみても、自分の血肉になってる感触がある時とない時に分かれてしまうのだ。

そんなある日、部下からの報告書を読む機会があった。整然と時系列的に言葉が並んでいて、論理も筋が通っている。特に問題があるようには見えないので、やり直しにはせず、そのままお疲れさまと終えたのだが、どうもしっくりこない。

なぜだろうと、ここ最近ずっと考えてきたのだが、今日、ていうか今さっき、はたと、この文章から報告者の声やこの案件に関わった人たちのリアルな声が聞こえてこないなぁと気づいたのだ。

もちろん仕事の報告書だから、そんな小説的な文法は必要ないので、これはこれでいいのだが、小説や映画や漫画を漁るように鑑賞してきた身としては、年表的な文章は人の声が聞こえないのがなんか寂しい。

 

そうか、、、

人の声か、、、

 

調べ物をする時というのは、人の声を想像、あるいは時には創造できるまで、調べるんだ。645年大化の改新と覚えるのではなくて、中大兄皇子中臣鎌足がどんな奴でどんなしゃべり方をして蘇我入鹿の暗殺を企て実行したのか、蘇我入鹿はその時戦ったのか、死に際に何を思ったのかなど、おおよそ正解は出ないが、そういう人の声が聞こえてくるぐらいまで調べてみることなのだ。

 

勉強というのは、受け身に覚えていくだけではない。その内容にまつわる人々の声、人が登場しない理科の実験のような事柄でも擬人化させて発せられる声、そういう声を能動的に創造していくことを勉強というのだ。